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市報うんなん2014年8月号

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菅谷たたら歴史物語

菅谷たたら歴史物語 第三弾「鉄穴(かんな)流し」前編

たたら製鉄に必要な砂鉄を効率よく採取する方法として考え出された『鉄穴流し』。今でも菅谷たたら山内(さんない)など吉田町内には鉄穴流しの選鉱場(せんこうば)の跡が現存しています。

菅谷たたら山内の近くで行われていた鉄穴流しの砂鉄選鉱場跡(萱ノ鉄穴場跡)
▲菅谷たたら山内の近くで行われていた鉄穴流しの砂鉄選鉱場跡(萱ノ(かやの)鉄穴場跡)

近世初頭、永代(えいだい)たたらが誕生した当時、ますます必要となった砂鉄を山間地の農民は鉄穴流しを副業とすることで暮らしを支えていました。やがて鉄穴流しで流された土砂は斐伊川に流れて堆積(たいせき)し、天井川(てんじょうがわ)となったため、洪水をもたらして下流域の農地や農民に被害を与えるようになると松江藩は斐伊川の鉄穴流しを禁止してしまいます(1613年~1636年)。この間、砂鉄が入手できなくなった鉄師(てつし)は経営が困難となり、副業ができない農民も苦境に立たされました。しかし1637年に鉄穴流しが解禁され、再びたたらの経営ができるようになると、1727年には、御買鉄制度(おかいてつせいど)を廃止して鉄穴場を縮小し、鉄師の数を制限して保護する政策が始まります。一方、農民が藩に納める年貢米は増加し、年貢米が納められない農民が出るようになったため、幕府は農民に副業を禁じ農耕に専念することを申し渡しました。農民がたたら製鉄にかかわることができなくなると、砂鉄が不足し、永代たたらの操業は再び困難を極めていきました。
その後、幕府は検討した結果、慶安(けいあん)のお触れを緩和する改革を定め、山間地のたたら製鉄地帯では、再び農民の鉄穴流しや駄馬(だば)運送稼ぎ、砂鉄や木炭を馬で運送する業務が可能となり、農民たちの暮らしの支えとなりました。

次回の後編では実際に鉄穴流しはどんなふうに行われていたのかをご紹介します。


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