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永井隆博士

永井隆博士について

永井 隆 (Takashi  Nagai)
明治41(1908)年2月3日 ~ 昭和26(1951)年5月1日 享年43

 放射線医学の研究による白血病を患い、また長崎の原爆で重傷を負いながらも自分の命を顧みず負傷者救護や長崎の復興のため、最後まで医師としての使命を貫きました。また、病床に伏しながら、二人の子どもたちを愛しみ、命の限り執筆活動を続けました。科学者であると同時に文芸家でもあった博士は「この子を残して」、「長崎の鐘」などの著作を通し、「如己愛人」・「平和を」の精神を日本のみならず、世界に向かって訴え続けました。

永井隆博士の年譜
明治41(1908)年2月3日 松江市で生まれる
明治42(1909)年 飯石郡飯石村(現、雲南市三刀屋町)に移住
大正9(1920)年3月 飯石小学校を卒業し、旧制松江中学校に入学
大正14(1925)年4月 旧制松江高校入学
昭和3(1928)年4月 長崎医科大学に入学
昭和5(1930)年3月 母ツネ死去
昭和7(1932)年3月 長崎医科大学卒業。物理的療法科に入局し、放射線医学を専攻
昭和8(1933)年2月 徴兵検査を受け、満州事変に従軍
昭和9(1934)年2月 帰還し、長崎医科大学助手として復帰
昭和9(1934)年6月 カトリックの洗礼を受ける
昭和9(1934)年8月 森山緑と結婚
昭和12(1937)年 日中戦争に従軍
昭和14(1939)年2月 父寛(のぶる)死去
昭和15(1940)年 帰還し、医大の助教授となる
昭和19(1944)年 医学博士となる
昭和20(1945)年6月 白血病と診断される
昭和20(1945)年8月9日 長崎に投下された原爆により、頭部動脈切断の重傷を負いながら、救護活動にあたる。妻緑、死去
昭和21(1946)年8月 「長崎の鐘」脱稿
昭和23(1948)年10月 ヘレン・ケラーさんが如己堂を訪れる
昭和24(1949)年5月 昭和天皇に拝謁
昭和25(1950)年6月 国家表彰を受け天皇から銀杯1組を賜る
昭和26(1951)年5月1日 長崎医科大学附属病院に入院、午後9時50分逝去。享年43

生い立ちの地

 永井隆(博士)は、明治41年、父寛(のぶる)が働いていた松江市田野医院の一室で産声を上げました。生れて間もない隆は、父の医院開業のため両親とともに飯石村(現雲南市三刀屋町)へ移住しました。以後、この地が永井家の本籍地となり博士のふるさとになりました。自然豊かな飯石の里で小学校を卒業するまでのびのびと育ちました。その生い立ちの家は、雲南市が管理し当時のままの姿で残っています。

ふるさとの人々との交流

 医師を志し長崎医科大学へ進んだ隆は、在学中にもたびたび帰省し、家族や親せきの人たちと団らんしたり、恩師・友人ともさかんに親交を深めていました。卒業後は、研究や医療活動、戦争動員など多忙の中、少ない機会を見つけて帰省し、親せきや近所の人たちへのあいさつ回りをかかしませんでした。また、なかなか帰省ができない分、こまめに手紙などを送りふるさとの人々と交流していました。

お問い合わせ先

教育委員会 社会教育課
〒699-1392
島根県雲南市木次町里方521-1
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Fax 0854-40-1079
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