トップ > 観光・文化 > 観光 > 遺跡・資料館 > 加茂岩倉遺跡

ここから本文です。

加茂岩倉遺跡加茂岩倉遺跡について紹介します

加茂岩倉遺跡について

雲に浮かぶ銅鐸のイメージ

平成20年7月 国宝決定!!
加茂岩倉遺跡出土銅鐸

平成8年10月14日、島根県雲南市加茂町岩倉の農道工事現場より、弥生時代中期から後期と思われる大量の銅鐸が出土し、一カ所の出土としてはこれまで全国最多の39個が確認されました。発見された遺跡名は翌15日、「加茂岩倉遺跡」と命名されました。発見現場はかつて大量の弥生青銅器が発見された荒神谷遺跡より約3km、「景初三年銘三角縁神獣鏡」が出土している神原神社古墳や弥生時代後期から古墳時代にかけての古墳群も近くに確認されています。

出土された銅鐸

銅鐸とは

銅鐸

弥生時代の青銅器のひとつで、使用目的はいまだに謎に包まれている。農業の豊作を願った祭器説や鳴らして音を聞く楽器や観賞用としての説も挙げられています。銅鐸には大きく分けて二種類ある。古いタイプは高さ20~50cm、揺り動かして鳴らす機能があるから「聞く銅鐸」。新しいタイプのものはその機能を失ってしまう一方、大型化して1mを超えてしまうものもあるから「見る銅鐸」と言われています。近畿地方を中心に多く出土しており、近年九州北部でも多数出土しています。これまで滋賀県野洲町大岩山遺跡において一箇所から24個の出土例が最多でしたが、今回の39個の発見はこれを大きく上回る結果となりました。

発見された銅鐸

加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸

加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸は、一カ所からの出土としては全国最多です。全国で約470個余り出土している銅鐸のうち、合計50個もの銅鐸が出雲から出土していることとなり、古代出雲を知る上で大きな示唆を与えてくれると思われます。出土した銅鐸は弥生時代中期ごろに作成された古い形式のものと、新しい形式のものとがあります。文様はあたかも水が流れるような流水文と、帯を縦横に画いた袈裟襷文(けさたすきもん)と呼ばれるもののいずれかです。銅鐸の大きさは形式ごとに大きさがそろっており、古く小さいものが約30cm前後、大きいものが約45cm前後です。銅鐸の多くは、大きなものの中に小さなものを入れた、入れ子の状態で発見されたものが12組あり、その他3組も入れ子だったと推定されており、銅鐸内部に詰まっていた土砂の分析結果から、銅鐸を埋めるまえに、人為的に中に砂を押し込んだ可能性があることも確認されています。この入れ子は、陰と陽、新と旧、などいろいろ言われていますが、弥生人のものの考え方、自然観にかかわっているものかもしれません。現在、加茂岩倉銅鐸のうち15個26個については、同じ鋳型で作られた、いわゆる兄弟銅鐸が存在することがわかっています。加茂岩倉銅鐸の中でもっとも注目されるのは、銅鐸の身の上にシカ、トンボ等の絵画を画いた18・23・35号銅鐸であり、出雲あるいはその周辺で作られた可能性がもっとも高いと考えられる銅鐸が、この3個です。出土した銅鐸の中の13個に、作った後「×」印をしたものがありますが、神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣358本の内344本にも「×」印があり、埋蔵したそれぞれの集団に強い関係があったのではないかと、注目されています。この「×」印には、作者や工房の目印、持っていた集団の目印、霊力を封じ込めるまじない・・・などいろいろな仮説があります。

入れ子銅鐸

「入れ子」とは、大きな銅鐸の内側に小さな銅鐸を収めることを言います。このように銅鐸を「入れ子」にして埋納した例は、滋賀県野洲町大岩山銅鐸を始めとして、これまでにもいくつか知られていました。しかし、これらはいずれも出土後の聞き取りによって確認されたもので、これに対して加茂岩倉銅鐸は「入れ子」による銅鐸埋納を発掘調査で確認したはじめての例となりました。加茂岩倉銅鐸には「入れ子」状態のままで見つかった銅鐸のほか、土や錆の付着状況によって「入れ子」関係を推定できるものもあり、計15組の「入れ子」関係が判明しています。
加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸は、45cm前後の大きな銅鐸20個、30cm程度の小さな銅鐸19個で、これらは古い段階のものと新しい段階のものに大きく区分することができます。ひとつは、型式分類上、外縁付鈕1式(二-1)から扁平鈕1式(三-1)に含まれるもので、石の鋳型で造られた古い段階の銅鐸です。もうひとつは扁平鈕2式(三-2)から突線鈕1式(四-1)に分類される、土の鋳型で造られた新しい段階の銅鐸です。
「入れ子」として大きな銅鐸の内側に収められた小さな銅鐸はすべて外縁付鈕1式ですが、外側の大きな銅鐸は外縁付鈕2式から扁平鈕2式と時期的にばらつきがあります。ただ、同じ型式の小さな銅鐸はもちろんのこと、外側の大きな銅鐸も型式に違いがありながら、それぞれその大きさがほぼ揃っていることはたいへん注目されます。「入れ子」埋納を意識して、意図的に同じ大きさの銅鐸を集めたとも考えられます。

同笵銅鐸

同笵銅鐸とは、同じ鋳型で造られた銅鐸のことです。加茂岩倉銅鐸では、15組26個の同笵関係が明らかになりました。つまり、39個の銅鐸のうち26個の銅鐸に何らかの同笵関係が認められたことになります。このうち1号鐸・26号鐸、3号鐸・30号鐸、14号鐸・33号鐸、24号鐸・38号鐸・39号鐸の4組9個の銅鐸は、いずれも加茂岩倉銅鐸だけで同笵関係が認められ、あとの11組17個の銅鐸については、その同笵銅鐸が他の地域に広く分布しています。
同じ鋳型で銅鐸の鋳造を繰り返すと、その過程で生じた傷(以下、「笵傷」という)が徐々に増加・進行し、それが銅鐸の表面に紋様とともに鋳出されます。笵傷の進行度に差はあっても、別々の銅鐸に共通する傷が認められた場合、これらの銅鐸が同笵である可能性は非常に高くなります。同じ鋳型で造られた銅鐸の紋様は、鋳型の補修等が行われない限り同じになるので、銅鐸の法量、紋様構成等を比較検討しながらこの笵傷に注目をしていくと、同笵関係のみならず鋳造順を追うことも可能になってきます。

一般的に古い段階の鋳型は石で造られ、新しい段階になると土で造られることがわかっています。古い段階には同笵関係をもつ銅鐸が多く存在し、新しい段階の銅鐸にはそれが少ないという事実は、材質的に土型よりも石型の方が再製にむいているからと言えます。
加茂岩倉銅鐸の同笵銅鐸15組26個を鋳型の種類から見てみると、そのうち14組24個が石型と見られ、出土した39個の銅鐸では、そのうち30個が同様に石型による鋳造品と見られています。このように見てみると、古い段階の銅鐸の80%で同笵関係が判明している計算になります。特に加茂岩倉4号鐸・7号鐸・19号鐸・22号鐸・和歌山県太田黒田鐸では、5つの銅鐸で同笵関係が明らかにされていることから、一組の鋳型で製作された銅鐸が、ある程度の個数でまとまっていることもわかります。また、これら一連の同笵銅鐸では、笵傷の進行状況から加茂岩倉22号鐸がもっとも早く造られた銅鐸と見られています。この22号鐸にも笵傷が認められていることから、これより先に同じ鋳型で銅鐸が鋳造されている可能性もあり、同笵関係にある銅鐸が少なくとも6個以上あるものと考えられています。

こうした多数鋳造の同笵銅鐸は、加茂岩倉31号鐸・32号鐸・34号鐸・鳥取県上屋敷鐸・兵庫県桜ヶ丘3号鐸や、加茂岩倉21号鐸・兵庫県気比4号鐸・大阪府伝陶器鐸・伝福井(明大1号)鐸でも確認されています。古い段階の銅鐸が、石型の特質を活かして同じ鋳型からいくつも鋳造されていたことを示す貴重な資料と言えます。
加茂岩倉銅鐸のなかで、新しい段階の銅鐸、つまり土の鋳型で造られた銅鐸で同笵関係が明らかになっているものは、1号鐸・26号鐸の1組2個です。この2つの銅鐸は、笵傷の進行状況や鋳型の補修痕から、26号鐸→1号鐸の順で鋳造されたと見られていますが、2つの銅鐸のうち、先に鋳造されたと見られる26号鐸を観察すると、すでに鋳型の補修による紋様の食い違いが認められ、26号鐸より先に造られた銅鐸の存在が考えられます。したがって、土の鋳型があっても3個以上の同笵銅鐸が存在する可能性を指摘できるわけです。
加茂岩倉銅鐸は、このように鋳型の種類と同笵銅鐸の関係をより一層明らかにした貴重な資料となりました。

同笵銅鐸関係の資料

岩倉遺跡銅鐸の紋様・絵画

加茂岩倉銅鐸を紋様の種類によって分類すると、石の鋳型で造られた古い段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と二区および三区流水紋のグループに分けられます。これに対して、土の鋳型で造られた新しい段階の銅鐸群は、四区袈裟襷紋と六区袈裟襷紋のグループに分かれます。さらにこの四区袈裟襷紋銅鐸には、区画内に絵画を持つものと持たないものがあります。
古い段階の銅鐸群のうち、流水紋銅鐸はすべて横型流水紋と呼ばれるものに属します。この横型流水紋は、畿内南部(河内南部・大和・和泉)の弥生時代中期初頭の土器に施紋されていた横型流水紋様の影響を受けたものと見られ、この時期の銅鐸群のほとんどは畿内南部の工房で製作されたと考えられています。ただ、四区袈裟襷紋の加茂岩倉12号鐸には、畿内南部で造られた銅鐸には見られないいくつかの特徴があります。こうした特徴を持つ銅鐸の鋳型が大阪府東大阪市の鬼虎川遺跡から出土していることから、この段階の銅鐸群の中には、河内北部の工房で造られた銅鐸もあることがわかってきました。

新しい段階の銅鐸群で特に注目されるのは、袈裟襷紋の上の区画内にトンボ・シカ・イノシシなどの絵画を配し、下区に四頭渦紋が鋳出された18号鐸・23号鐸・35号鐸です。描かれた図像に違いはありますが、鈕や鐸身の紋様構成は極めて似通っています。たとえば、一般的な袈裟襷紋銅鐸は縦帯に対し横帯が優先して施紋されますが、これらの銅鐸は袈裟襷紋の縦・横帯が切り合っており、袈裟襷紋の中に施紋された斜格子紋様の充填方法を見ても横帯優先となっていません。また、縦帯の幅が身の上部では狭く、下部へ向かうほど広くなっており、これに対応するように、充填された斜格子紋が上部ほど密で下部ほど粗となっています。こうした特徴は、同じ時期の畿内系銅鐸にはあまり見られないもので、これらの銅鐸が出雲で造られたとされる理由のひとつに挙げられています。
これらの銅鐸に描かれた絵画にも、これまで各地で出土した絵画銅鐸にはない特徴が見られます。そのひとつは、18号鐸・35号鐸に鋳出されたトンボが、複線で写実的に描かれていることです。これまで知られている絵画銅鐸のトンボは単線で描かれており、抽象的な表現に留まっていますが、これらの銅鐸の場合は、頭部・胸部・腹部の境がくびれ、各部位が明瞭に区別されています。翅は4本線で描かれ、前翅・後翅の縁が表現されています。さらに18号鐸B面上右区のトンボには、眼を表現したと見られる小さな点も2つ認められ、工人の細かな観察力と表現力が感じられます。
このほかにも鈕にカメを描いた10号鐸、同じく鈕の頂部に人面を描いた29号鐸など、特色のある絵画を持つ銅鐸があります。これらはいずれも六区袈裟襷紋銅鐸で、袈裟襷紋の区画内・鈕や鰭の鋸歯紋帯の無紋部分に研磨の痕跡が認められます。8号鐸・20号鐸も六区袈裟襷紋銅鐸ですが、10号鐸・29号鐸と同様の研磨が施されており、こうした研磨は、いわゆる「見る銅鐸」としての効果を狙った技法と考えられます。また10号鐸には表面に水銀朱が塗布されていることも確認されています。これらの銅鐸からは「見る銅鐸」に込めた弥生びとの想いが伝わってくるようです。


もしもに備えて

防災情報

急病時の医療機関