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市報うんなん2014年7月号

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菅谷たたら歴史物語

菅谷たたら歴史物語 第二弾「砂鉄」

今回は、菅谷たたら製鉄と切り離すことのできない砂鉄にまつわるお話です。
『語り部』の中で語られる砂鉄について、最後の村下(むらげ)であった堀江要四郎(ほりえようしろう)さんのことばなどが紹介されています。


▲夏の菅谷景観

『語り部』 ~砂鉄の話あれこれ~

「昔から砂鉄(さてつ)といったことはありません。皆が「こがね」といっていました。」昔の記録されたものには「粉鉄(こがね)」「小鉄(こがね)」とあります。
たたらでは鉧吹(けらぶ)きが一番難儀な仕事でした。「鉧吹きはやる度ごとが初めてで同じ鉧は吹けませんでした。いつも違った鉧しか吹けなかった。」あの優れた鋼(はがね)は一に釜(かま)、二に炭(すみ)で三に風(かぜ)、四に粉鉄(こがね)でして、五に勘(村下の技術)でした。
「粉鉄も炭も土も風も生きています。それが仲のよいときもありますが反対に仲の悪いこともありまして、勘に頼るしかありませんでした。」
この菅谷たたらは、近郷にない良質の粉鉄が集まりますし、炭の検査が厳重だったため、良質の炭を焼いていましたから恵まれていました。
「赤目(あこめ)の『こもりの粉鉄』は薬粉鉄(くすりこがね)といっているほど細く軟らかい粉鉄でして、たたら吹きのとき、一番初めに炉(ろ)に落とす粉鉄です。鉧吹きの時にはこの粉鉄は早く溶け、溶けた湯(鉄が溶けたもの)は基釜(もとがま)に入り、釜の温度を上げます。炉の温度が早く上がるほど良質の鋼が多く出ます。その『こもりの粉鉄』が菅谷は近いところに多くありました。
また、川粉鉄(かわこがね)も使っていました。熊谷(くまたに)の粉鉄より、粟谷(あわだに)(三刀屋町飯石川流域)の川粉鉄がよかった。真砂(まさ)砂鉄は赤目に近い砂鉄も使いました。真砂は上山(うえやま)(吉田町東部)や川手(かわて)(吉田町北部)のがありましたが、上山の真砂は上品で無難な粉鉄でした。」
堀江村下のことばからは、たたらが吹かれている間、炉(ろ)に投入する砂鉄の量や種類に片時も気を抜くことができなかった様子がうかがえます。

次回は、砂鉄の主要な供給法であった鉄穴(かんな)流しについてご紹介します。


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